ごっこ遊びの人生より

主に哲学とアニメの勉強をしています。

井奥陽子 『近代美学入門』

分析美学には興味があったが、近代美学には大学の講義以来ほとんどふれてこなかったため、そろそろちゃんと勉強したいと思い、購入。本書はタイトルのとおり、近代美学の入門書である。美学史の入門書として非常に読みやすいので、美学初学者にはとてもおすすめ。

 

第1章 芸術―技術から芸術へ

アート概念の変化

・アート=技術(古代~中世):古代ギリシャには芸術という概念がなかったというのが、美学史の定番だが、「ミメーシスの技術」として芸術の概念があったという説もある。本書は、近代以降の芸術と同一視はできないという立場。このころ、文芸と音楽(自由学芸)は学問、絵画、建築、彫刻(機械的技術)などは職人が担う作業だと考えられていた。

また、美という概念は倫理や神学で扱われるものであり、必ずしも芸術で扱われていたわけではなかった。

・アート=芸術(近代以降)

絵画や彫刻、建築など価値が認められていく。

・何が芸術で何が芸術でないのか

当時の美しい諸芸術の概念とは、芸術とは、高い技術でもって美しいものを生み出すこと、生み出された作品のこと。実用を目的化しないこと、理論では教わることができないなど、色々あるが、これらの要素は必要十分条件ではない。

 

第2章 芸術家―職人から独創的な天才へ

芸術家の変遷

・注文に応じて、神や権力者の栄光を讃えるために制作する。(初期近代)

・作者の不在、作品の源は人間ではなく、神であると考えられていた。(近代以前)

・画家、彫刻家、建築家がギルドから美術アカデミーに移る。職人ではなく、芸術家と彼らは呼ばれるようになる。(16世紀後半~17世紀)

・自己表現、独創性が求められる。パトロン、ギルドから独立するものが現れる。(18世紀以降)

・芸術の本質は模倣である「模倣理論」→芸術の本質は作者の内面の表現である「表現理論」(18世紀から19世紀)

・芸術家が天才、神の概念と結びつく。

・作者の発生、作者と作品の問題の発生(作者の意図と解釈)

 

第3章 美――均整のとれたものから各人が感じるものへ 

美の変遷

・プロポーション理論(客観主義):美とはプロポーションによって生まれる調和である。(古代~初期近代)

・バーク(主観主義):プロポーションは対象を数学的に分析することで定められる。しかし、私たちは長い間あれこれ考えずとも、対象が美しいか判断することができる。同じようなプロポーションでも、ある人は美しく、ある人は醜いという場合がある。

・ヒューム(主観主義と客観主義の調停):美とは美しいと感じるその感情であり、ものの中にある性質ではない。それでもやはりものには美しいと感じさせることに適した一定の性質がある。趣味については論争できない。

・カント(主観主義と客観主義の調停):感覚(ワインが美味しい)は主観的であり、普遍的ではない。しかし、美について(薔薇が美しい)は主観的であるが、普遍的であることを期待する。なぜなら、美を感じるときの心地よい感情は、あらゆる人に共通すると想定できるから。

・井奥:主観主義美学に基づいた美の自律性が普遍的真理かのように語られることについての指摘。

①美の政治性(美や芸術にかかわる人は政治や道徳に無関心でいいのか)

②自分が美しいと感じるものは、文化や制度によって後天的に方向づけられるものもある。

 

第4章 崇高――恐ろしい大自然から心を高揚させる大自然へ 

山に対する美意識の転換

・山は崇拝と忌避の対象(古代~初期近代)

・バーネット:山に対して嫌悪感を抱くが、一種の心地よさも感じる。(17世紀以降)

・デニス:恐怖と歓喜という相反するものが混ざり合う激しい感情を喚起する。

 

崇高なもの

・バーク:崇高は美と対置されるもの。崇高なものは恐ろしいもの(大海、蛇)、力をもったもの(ライオン、神)曖昧なもの(森、寺院の暗闇、霧、亡霊)、広大、無限なもの。感覚を圧倒する過剰な光、音。

美しいものは、比較的小さなもの(小動物)、滑らかなもの(毛並み、女性の肌)、繊細なものなど。

バークは崇高さは自己保存(自分の生命を脅かす苦痛を与えるもの)、美は社交(他人や動物と愛情をもって付き合うなかで引きこされるもの。心地よさを与える。)という感情にかかわると考える。崇高さは危険で恐ろしい者から一定の距離がある場合、歓喜が生じることがある。檻の中のライオン、足場の安定した山頂からの景色など。

・カント:崇高なものを2つに分類する。1つは、大きさや数が無限に思われるもの。(アルプスのような山脈、宇宙、星空)2つめは、強大で恐怖を引き起こすもの。(岩壁、嵐、雷、火山、荒れた海)

自然が崇高さを喚起する理由:自然の驚異によって人間は己の無力さを知る。しかし、人間は小さな存在ではあるが、理性は持っている。この点において、人間は自然より優れている。崇高の感情は、この事実が明らかになることにより、人間への尊敬の念がうまれ、心が高揚することによって生まれる。

カントに言わせると、本当に崇高なものは自然ではなく、人間。私たちは崇高の感情の引き金になった自然のことを崇高であると取り違えている。

・リオタール:戦後の前衛的な芸術家は美しいものではなく、崇高なものを目指してきた。思い描くことのできないも(表象不可能なもの)を描かないままに提示しようと試みるものこと前衛的な芸術だ。

 

第5章 ピクチャレスク――荒れ果てた自然から絵になる風景へ

・ピクチャレスク(絵になる):18世紀前半までは「絵画的な」という意味をもっていたが、18後半になると、「自然の風景」という意味として用いられる。

ギルピンによると、ピクチャレスクは、美しいものがなめらかであるのに対し、凹凸、ゴツゴツ、ザラザラした「粗い」性質である。廃墟となった土地、枯れ木、年齢の刻まれた老人の顔など。プライスは、長い時間の経過や人間を超えた自然の力を感じさせることをピクチャレスクの特徴として強調した。

ギルピンいわく、ピクチャレスクに構図も大事。理想的には、両端にフレームがあって、奥行きが感じられる構図。

ギルピンは美しいものは「自然の状態で目を楽しませる」のに対し、ピクチャレスクなものは「絵画に描かれることができるような何らかの性質によって目を楽しませる」と定義する。ピクチャレスクなものは、風景画に描かれること(あるいは、描かれることを想像すること)で初めて良さが感じらえるものである。また、ピクチャレスクな風景を見つけることができる人をピクチャレスクな人と表現されたりもする。

ナイトは教養がない人はピクチャレスクな風景には気づけないというエリート主義的な側面を論じている。

・庭園についてもピクチャレスクの概念は論じられる。ギルピンは特定の場所から眺める視覚的で静的な特徴をもったものだが、プライスやナイトは自然の中を遊歩する身体的で動的なものだと考えられる。

・最後に美や芸術は自然とのかかわりについて。環境問題、現実に対する心理的な距離「美的距離」についてなど。