ごっこ遊びの人生より

主に哲学とアニメの勉強をしています。

井奥陽子 『近代美学入門』

分析美学には興味があったが、近代美学には大学の講義以来ほとんどふれてこなかったため、そろそろちゃんと勉強したいと思い、購入。本書はタイトルのとおり、近代美学の入門書である。美学史の入門書として非常に読みやすいので、美学初学者にはとてもおすすめ。

 

第1章 芸術―技術から芸術へ

アート概念の変化

・アート=技術(古代~中世):古代ギリシャには芸術という概念がなかったというのが、美学史の定番だが、「ミメーシスの技術」として芸術の概念があったという説もある。本書は、近代以降の芸術と同一視はできないという立場。このころ、文芸と音楽(自由学芸)は学問、絵画、建築、彫刻(機械的技術)などは職人が担う作業だと考えられていた。

また、美という概念は倫理や神学で扱われるものであり、必ずしも芸術で扱われていたわけではなかった。

・アート=芸術(近代以降)

絵画や彫刻、建築など価値が認められていく。

・何が芸術で何が芸術でないのか

当時の美しい諸芸術の概念とは、芸術とは、高い技術でもって美しいものを生み出すこと、生み出された作品のこと。実用を目的化しないこと、理論では教わることができないなど、色々あるが、これらの要素は必要十分条件ではない。

 

第2章 芸術家―職人から独創的な天才へ

芸術家の変遷

・注文に応じて、神や権力者の栄光を讃えるために制作する。(初期近代)

・作者の不在、作品の源は人間ではなく、神であると考えられていた。(近代以前)

・画家、彫刻家、建築家がギルドから美術アカデミーに移る。職人ではなく、芸術家と彼らは呼ばれるようになる。(16世紀後半~17世紀)

・自己表現、独創性が求められる。パトロン、ギルドから独立するものが現れる。(18世紀以降)

・芸術の本質は模倣である「模倣理論」→芸術の本質は作者の内面の表現である「表現理論」(18世紀から19世紀)

・芸術家が天才、神の概念と結びつく。

・作者の発生、作者と作品の問題の発生(作者の意図と解釈)

 

第3章 美――均整のとれたものから各人が感じるものへ 

美の変遷

・プロポーション理論(客観主義):美とはプロポーションによって生まれる調和である。(古代~初期近代)

・バーク(主観主義):プロポーションは対象を数学的に分析することで定められる。しかし、私たちは長い間あれこれ考えずとも、対象が美しいか判断することができる。同じようなプロポーションでも、ある人は美しく、ある人は醜いという場合がある。

・ヒューム(主観主義と客観主義の調停):美とは美しいと感じるその感情であり、ものの中にある性質ではない。それでもやはりものには美しいと感じさせることに適した一定の性質がある。趣味については論争できない。

・カント(主観主義と客観主義の調停):感覚(ワインが美味しい)は主観的であり、普遍的ではない。しかし、美について(薔薇が美しい)は主観的であるが、普遍的であることを期待する。なぜなら、美を感じるときの心地よい感情は、あらゆる人に共通すると想定できるから。

・井奥:主観主義美学に基づいた美の自律性が普遍的真理かのように語られることについての指摘。

①美の政治性(美や芸術にかかわる人は政治や道徳に無関心でいいのか)

②自分が美しいと感じるものは、文化や制度によって後天的に方向づけられるものもある。

 

第4章 崇高――恐ろしい大自然から心を高揚させる大自然へ 

山に対する美意識の転換

・山は崇拝と忌避の対象(古代~初期近代)

・バーネット:山に対して嫌悪感を抱くが、一種の心地よさも感じる。(17世紀以降)

・デニス:恐怖と歓喜という相反するものが混ざり合う激しい感情を喚起する。

 

崇高なもの

・バーク:崇高は美と対置されるもの。崇高なものは恐ろしいもの(大海、蛇)、力をもったもの(ライオン、神)曖昧なもの(森、寺院の暗闇、霧、亡霊)、広大、無限なもの。感覚を圧倒する過剰な光、音。

美しいものは、比較的小さなもの(小動物)、滑らかなもの(毛並み、女性の肌)、繊細なものなど。

バークは崇高さは自己保存(自分の生命を脅かす苦痛を与えるもの)、美は社交(他人や動物と愛情をもって付き合うなかで引きこされるもの。心地よさを与える。)という感情にかかわると考える。崇高さは危険で恐ろしい者から一定の距離がある場合、歓喜が生じることがある。檻の中のライオン、足場の安定した山頂からの景色など。

・カント:崇高なものを2つに分類する。1つは、大きさや数が無限に思われるもの。(アルプスのような山脈、宇宙、星空)2つめは、強大で恐怖を引き起こすもの。(岩壁、嵐、雷、火山、荒れた海)

自然が崇高さを喚起する理由:自然の驚異によって人間は己の無力さを知る。しかし、人間は小さな存在ではあるが、理性は持っている。この点において、人間は自然より優れている。崇高の感情は、この事実が明らかになることにより、人間への尊敬の念がうまれ、心が高揚することによって生まれる。

カントに言わせると、本当に崇高なものは自然ではなく、人間。私たちは崇高の感情の引き金になった自然のことを崇高であると取り違えている。

・リオタール:戦後の前衛的な芸術家は美しいものではなく、崇高なものを目指してきた。思い描くことのできないも(表象不可能なもの)を描かないままに提示しようと試みるものこと前衛的な芸術だ。

 

第5章 ピクチャレスク――荒れ果てた自然から絵になる風景へ

・ピクチャレスク(絵になる):18世紀前半までは「絵画的な」という意味をもっていたが、18後半になると、「自然の風景」という意味として用いられる。

ギルピンによると、ピクチャレスクは、美しいものがなめらかであるのに対し、凹凸、ゴツゴツ、ザラザラした「粗い」性質である。廃墟となった土地、枯れ木、年齢の刻まれた老人の顔など。プライスは、長い時間の経過や人間を超えた自然の力を感じさせることをピクチャレスクの特徴として強調した。

ギルピンいわく、ピクチャレスクに構図も大事。理想的には、両端にフレームがあって、奥行きが感じられる構図。

ギルピンは美しいものは「自然の状態で目を楽しませる」のに対し、ピクチャレスクなものは「絵画に描かれることができるような何らかの性質によって目を楽しませる」と定義する。ピクチャレスクなものは、風景画に描かれること(あるいは、描かれることを想像すること)で初めて良さが感じらえるものである。また、ピクチャレスクな風景を見つけることができる人をピクチャレスクな人と表現されたりもする。

ナイトは教養がない人はピクチャレスクな風景には気づけないというエリート主義的な側面を論じている。

・庭園についてもピクチャレスクの概念は論じられる。ギルピンは特定の場所から眺める視覚的で静的な特徴をもったものだが、プライスやナイトは自然の中を遊歩する身体的で動的なものだと考えられる。

・最後に美や芸術は自然とのかかわりについて。環境問題、現実に対する心理的な距離「美的距離」についてなど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

戸田山和久 『教養の書』

教養をみにつけたいと思ってはいるが、それって何なのかを参考にしたくて読んだ。

 

戸田山の教養の定義

「社会の担い手であることを自覚し、公共圏における議論を通じて、未来へ向けて社会を改善し存続させようとする存在」であるための能力。その能力を持つ人格へと自己形成するための過程も含まれている。

この能力には①大きな座標系(世界)に位置づけられ、関連付けられた豊かな知識。かつ絶対視はしない豊かな懐疑。

②大きな価値基準に照らして自己を相対化する、柔軟性。

③答えの見つからない状態に対する耐性。

 

感想

基本的には、これを基準に教養と向き合いたいと考えている。

 

 

 

伊集院利明 『生の有意味性の哲学 第三の価値を追求する』

 

本書は分析哲学による人生の意味の研究書である。まだまだ人生の意味の日本語で読める文献はすくない。本書の主張はMILが意味であることよりも、それが価値である重視して、解明することを目的にしている。個人的には3章の議論が勉強になった。

 

第1章 序論

基本的な分析哲学の人生の意味、MILのウルフとメッツという人の紹介と、伊集院の基本方針のまとめ。

・MIL( meaning in life )「生の有意味性」各自の人生において実現させる価値

・MOL(meaning of life) 「生の意味」人間は、世界は、私はなぜ存在しているのかといった問いにかかわるもの。

・WB(well- being)各自にとっての幸福

・happiness  WBのうち主観的状態の側面。快楽その他により成り立つもの

序論ではウルフはMILが道徳、WBと区別して、第三の価値であることを主張している。

ウルフの提言を受けてメッツはMILの概念、分類。

・1.目的性、2.自己を超えるものにかかわるもの、3.誇りなどにふさわしい

・超自然主義…MILを成立させるためには、魂、神などが必要であるとする立場

自然主義…主観説(本人の主観的満足)、客観説(客観的な評価基準で評価する)という二つの立場

・伊集院の路線…可能な限り第三現象路線(強いウルフ路線)をとる。MOLはMILの実現である、世界のかかわりを重視する。超自然主義は扱わない、反成果主義、当人の能力の誤認、MILの反価値の存在、部分全体問題で部分説をとるなど。

 

第2章 二つの基礎考察

タイトルどおり、本章は本格的考察に入る前に、準備的考察である。メッツのMeaning in lifeの客観主義とは、序論の分類である。

・主観説…本人の主観的満足、是認により、その人のMILが成立するとする。

・客観説a(hybrid)…主観と客観のどっちも必要(ウルフ)

・客観説b(準純客観)…客観が必要、主観は必要ではないが、あればなおよし(メッツ)

・客観説c(純客観)…客観的な外的成果の身によって決まる

本書は、人生の意味は価値であり、客観主義(のうちの反成果主義、本人の世界のかかわりのあり方を重視する)の立場を主張するものである。伊集院は成果主義以外の客観説が排除されることが不合理であると指摘する。

幸福の快楽説、欲求実現説などの議論を挙げながら、主観説の議論の難しさを紹介する。

 

第3章 反成果主義な客観説

この章では、準純客観説、純客観説のうちで客観的要因として、成果以外のものを重視する説を主張する。他の説は却下していく。

・主観説

2章で確認したことで却下できるもの。客観説は各人の適した価値の実現のあり方を認めている。

自殺未遂をしたジョージ、苦悩に満ちたマザーテレサは、主観説をとれない。(逆に客観説ならかバーできる)p.73.

・hybrid説

主観説が却下されたので、成り立たなくなる。(しかし、MILのために内的、心的あり方や取り組み方が、一定のあり方をしたものが必要である)p.75

・純客観説のうちで成果を重視する説

事象に対して、当人の一定のあり方(客観的あり方)がない場合、当人の意図がない単なる成果はMILをもたらさない。p.76

・準純客観説のうちで客観的要因を成果のみに重視する説

主観説と純成果主義の議論で却下される。

・準純客観説もしくは純客観説のうちで主に成果を重視する説

運や才能に成果は依存するが、それを認めることができるのか。

・純成果主義

当人の意図や是認がないようなものをMILとして認めることはできない。pp.64~69

 

第四章 生実現形成説

・EER:自己の生と世界のあり方を相互調整し、自分のものとして大切な、自分が愛せるような営為を切り開く形で、自分が世界において何ができるかを模索し、それによって自己を形成していく運動。

・job crafting:労働者が、仕事にたいして自分にとって適合したものとして意義ある活動としていく在り方。

・EER+JC(job crafting)=EERJC=LC(Life Crafting)

・伊集院はLCがEERを補強するものだと考えている。

・LC=生実現形成:生の現実的な活動。個人のMILの量は生実現形成の充実度によって決まる説。 

 

 

第五章 六章 諸問題の考察により生実現形成説をさらに裏付ける

・生実現形成を裏付けていく章。

余剰次元において、MILは起こる。

・narrative的理解を重視することは誤りではないが、一定の制約が課される。型どおりのストーリー展開、世間からの与えられた展開図式に拘束される危険もある。世間との身体的かかわりを活性化させ、自分のものとしていくことが、生の展開性を制約せず、一定程度柔軟にしていくことが、必要である。

 

第7章 展望 見通し

自然主義、meaning of life とのつながりなどが考察される。

 

3章の特に勉強になったところ

・3-5 「成果」を考える(pp.101~110)

成果とは何か?を考えることにより、成果重視主義に対してダメ押しをすることを趣旨とする。絵画制作を例に考える。

             第一ルソー 現実のルソー

             第二のルソー 絵画がすべて消滅する

             第三のルソー 絵画が生前に全く評価されず、タンスにしまわれて、人類が絶滅するまで、だれにも発見されずに終わる

             第四のルソー タンスにしまわれていたものが、あるとき、奇跡的に発見されて、大きな評価を得る

             作品説:立派な作品を作り上げた。 1,2,3,4

             結果効果説:結果として与えたインパクト。1,4

             運の違い 成果重視主義はこの隔たりに鈍感である。3,4

             立派な作品がはっきりとして形にできているにもかかわらず、それを成果と呼ばないことに抵抗感を覚える。

             作品完成と、結果効果との間に差がありすぎ、運が強く介在しすぎる。人間が作品制作をする場合、外的効果を狙うことを優先して考えられるわけではない。

(補足)地球によく似た星で、SIAが芝生数えの競技を開拓する例

             SIA 芝生競技開拓者。

             SIB Aと同じだが、発掘されない。

             SIC 一万人の中の一人として、Aと同じ感覚の持ち主として、発掘される。しかし、ごくわずかな人の間だけで知られる存在になる。

             SID 一万に一人。発掘されずに終わる。

             SIE その他はCとDと同じだが、世界で唯一の人。

結果効果の点で考えると、同じようなことをしながら、A以外ゼロに等しい。これらに大きな差を作ることは反直観的である。

作品制作(完成案)について

 成果重視説は世界との関係を、重視することには肯定的である。(作品制作案は)それでは、なぜ世界に何の効果ももたらさないものを重視せねばならないのかが、不可解なものになる。

 第五のルソー 自分の楽しみのためだけに制作し、死の直前に作品を燃やす。

 第六のルソー 頭の中で絵を描くことが可能であり、キャンバスに描く必要性を感じず、頭の中にとっておく。

             第六ルソーを成果として扱うことには反直観的であるが、MIL価値において5と6に大きな差があるとは考えにくい。

作品と一定の同等性の価値をもつにもかかわらず、「成果」とはいえないものが出てきてしまう。完成した作品は、運さえよければ大きな外的結果効果をもたらすものである。しかし、その点では全く同様のものは、様々ある。

(例)3-2の音楽絵画翻訳機事例。芝生数えのSID,SIE。ボランティアの深みのある言葉。

ブルーフィルムの哲学

ポルノグラフィティの美的経験についてまとめた。

 

第2章 ブルーフィルムを見るとはどのようなことか

・直接見ることは困難であるために、証言に頼り、美的評価をすること。

・証言の視点はかなり男性目線になる。

 

第3章 ブルーフィルムはなにゆえに美しいのか

・卑猥な作品は道徳的な感情と、感情的反応との反発を感じながら魅了される。

・鑑賞そのものが、不道徳ではなく、のぞきが不道徳である。あたかも、鑑賞がのぞきであるかのような構造になっている。

マスターベーションの体験は音楽のグルーヴに相当するのでは。

ノエル・キャロル 『ホラーの哲学 フィクションと感情をめぐるパラドックス』

 

分析美学で有名なノエル・キャロルのホラーにおける哲学の研究書。

ホラーの話では、戸田山本もあるので、戸田山本で語られていないことをまとめていきたい。キャロルはなぜホラーを求めるのかという問いに、モンスターが何かを解き明かすことに快を感じる説をとる。

 

第2章 キャラクタ―の同一化は必要か

キャロルの意見はキャラクターに同一化するのではなく、キャラクターの状況に同化するものである。状況とは主人公が評価していることや、主人公が知らないこと(後ろからモンスターがせまっていること)などである。

 

第3章 ホラーのプロット

・複合的発見型プロット:登場(モンスター登場、段階的に明らかになることも)、発見、確証、対決。『ジョーズ』 『エクソシスト

別バージョン

・発見型プロット:登場、発見、対決。『死者たちの刻』

・確証型プロット:登場、発見、確証。『ボディスナッチャー/盗まれた街』

・モンスターが知られている場合(ゴジラの続編など):登場、確証、対決。

・登場/対決型、発見、確証、・発見/確証、・確証/対決などパターンの組み合わせの作品がみられる。

・越境者型プロット:実験の準備、実験そのもの、実験が失敗したときの蓄積、モンスターとの対決。(マッドサイエンティスト、ネクロマンサーもの)

幻想文学プロット:ホラーに近いものではあるが、よくわからないまま終わるもの。

 

第4章 

ホラーの快とは?

一般理論:開示型プロット、monsterが好奇心を刺激する。

統合説:プロット、描かれた出来事から快に寄与することになる。

併存説:一方の感情が他方の感情を上回るとき。(怖いより快)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

難波優輝 「批評の新しい地図ー目的、理由、推論ー」他2本。

批評の新しい地図

最近読んだ、分析美学の議論である批評とは何かをまとめる。難波さんは批評の哲学の特徴を、目的、理由、推論の3つに分類している。さらに3つの分類を包括するような多元主義の立場をとる。

批評の目的

ビアズリー選択の手助け):批評とは、能力や時間が不足している人のために、批評家がみるべき作品を提示するものだ。(ゲームレビュー、映画ガイド)

・アイゼンバーグ(知覚の伝達):批評とは、批評家の見方、聞き方といったかかわり方を読み手に共有することを目指す立場。

・キャロル(価値づけ):批評とは、理由に基づいた価値づけである。

・シブリ―(説明):批評とは、作品の構成要素がなぜ特定の印象を与えるのかを図像学的な知識、また、作品の物語の意味を説明するものだ。(展覧会のカタログ)

 

批評で用いられる理由

ウォルトンカテゴリに基づいた価値づけの理由。キュビズムとして適切なカテゴリにおいて鑑賞することが、ゲルニカを適切に鑑賞するための重要な条件。

・キャロル(認識的理由、真偽と結びつく):芸術カテゴリに属し、目的や重要性を考慮すれば、作品の価値づけを支える原理は存在し、理由に基づいた価値づけが可能である。

・ジフ(実践的理由、真偽には限定されない):あるものが、なぜよいのか。ある条件において、対象に対してある人が遂行する行為がそれ自体として価値があるという事実が理由として用いられる。(ホラー映画を見る特定の条件のもと、ホラー映画を好んでみて、精神的な疾患を抱えていない人がにとって、おそろしい、快い経験・行為ができる)

カテゴリだけではなく、特定の人(価値に関心がある人)にとっては価値のある行為にかかわる事実もまた理由として語られる。(失恋ソングのレビュー、プレイリスト)

 

批評の推論

理論的推論:特定の信念を結論にする。全部の条件は信念。(ある作品では、ずっこける仕草が上手く行われている。→その作品はスラップスティック・コメディである→スラップスティック・コメディの目的、機能を踏まえるならば、ずっこける仕草が上手く行われているスラップスティック・コメディはよい。→その作品はよい。)

実践的推論:行為を結論にする。

欲求・信念(読み手は作品Xを十分に鑑賞したい)→行為(読み手は作品の形や色に注目する。)

 

対立の整理

・アイゼンバーグ:批評は理由に一般規範に基づいたものではなく、恣意的な理由に基づいたものである。批評家は価値判断ではなく、知覚の伝達を行うべきだ。

→価値づけの説明ができない。

・キャロル:カテゴリという規範があるのだ。

→価値づけを主な目的としていないような言説、批評理論に基づいた分析を批評として扱えなくなる。キャロルは価値づけは暗黙に批評にあり、ゆえに、批評は価値づけを目的としている言説なのだという。しかし、価値づけの側面があるということと、価値づけを目的としていることは違う。

 

批評理論に基づいた批評

目的:認識論メリット(様々な解釈)

理由:認識的(カテゴリーではなく、批評理論)

推論:理論的

 

ヒューム「趣味の標準について」

読んだが、消えた。

 

ケンダル・ウォルトン 「芸術のカテゴリー」

 批評家は「芸術作品はただ、その作品のうちに知覚されうるものだけから判断されるべきだ」という見解は誤解を招くものであると主張する論文。

 

II. 標準的性質、可変的性質、反標準的性質 

 

私たちは、ある美的性質は、その作品の非美的性質だけに依存するだけではなく、その作品の非美的性質のどれが、標準的性質で、どれが、可変的性質で、どれが、可変的で、どれが反標準的に依存する。カテゴリー(メディア、ジャンル、様式、形式)知覚によって、美的性質も決まる。

標準的性質:作品のある特徴のおかげでそのカテゴリーだとわかる性質。

可変的性質:ある特徴がそのカテゴリーに属していることと、無関係な性質。

反標準的性質:その特徴があると、そのカテゴリーではないとわかる性質。

例えば、絵画というカテゴリーにおいて、絵画の平面性、絵柄の動かなさは、標準的。その絵画の特定の形や色は、可変的。三次元的な物体が飛び出る、キャンバスが動くことは、反標準的。

ウォルトンの述べる知覚は短い間、もしくは長い間続くものである。知覚はゲシュタルト的な知覚であって、ウサギ、アヒルのように同時にカテゴリー知覚できない場合もある。

 

作品を特定のカテゴリーで見る原因

aカテゴリーの知覚は、われわれがどのような作品に親しんでいるかによる。

b批評家、他の人が何を言っているか。

c作品との出会い。○○展でその作品を見る場合、バイアスがかかる。

 

III. 知覚についての一つのポイント

その作品が美的効果を与えるのは、その作品の特徴が、われわれにとって標準的で、可変的で、反標準的であるかに依存する。

(a)再現的性質と類似的性質は、このテーゼを説明してくれるかもしれない。絵画とか、しかし、この類似は特別な類似、その作品のカテゴリーに結びついている。可変的性質がかかわっている。標準的性質は「どの種の再現なのか」を決定するのに、役立つ。

(b)標準的性質と可変的性質の違いは類似、再現だけにかかわるものではない。「ゲルニカ式」:ゲルニカの色で塗られている立体の芸術カテゴリーを想定した場合、その人たちは我々にとっては標準的性質であるゲルニカの平面性を可変的特徴に、可変的である表面の人物像を、標準的ととらえるだろう。われわれはゲルニカを見たときには、力動的で、驚きがあるものかもしれないが、「ゲルニカ式」社会であると、平面的でおとなしいものに感じるかもしれない。我々に取っ手にとって特筆すべきゲルニカの色面は、ゲルニカ式社会では、重要ではないものになるだろう。

(C)標準的特徴は美的な効果を持たないと思われるかもしれないが、そんなことはない。

標準的特徴の作品はに、秩序、不可避性、安定性、正しさといった感じを与えることができる。統一化の効果など。

(d)サイズ、ボリューム、スピードを持っていることは、可変的であるが、しかじかの範囲内に収まっていることは、そのカテゴリーにとって標準的である。これはある種の美的効果を促すものとして機能する。(楽譜の指示など)ピアノの音とはそもそもどのようなものかみたいな標準的性質との関係をふまえなければ、旋律の性格は決定できない。

(e)そのカテゴリーのルール、標準的性質に我々に引き起こす効果は依存している。

(f)反標準的特徴は作品の可変的性質をぼやけさせる。われわれは反標準的な特徴を含む作品に頻繁に接していたら、我々はカテゴリーに合わせてそれに変更する。a反標準的ではなく、標準的特徴になったカテゴリー(コラージュか)b拡張されたカテゴリーにする、絵画において付属物があるかどうか反標準的ではなく、可変的になる。

鑑賞の中でのショックは、レアやユニークだという点からだけではなく、そのカテゴリーにおいて、反標準的であるという点から生まれる。反標準的特徴は、カテゴリーにおいてはみ出し者であるが、あるカテゴリーにおいてレアであることと同じではない。(メロディは独自だが、反標準的ではない)

 

Ⅳ 真と偽

先ほどだした例に「ゲルニカ式」を踏まえるとある見方は正しい、正しくないという判決を出すことは可能なのか。カテゴリー相対的解釈は、美的判断を間違いないものにしてしまう。ゲルニカを平面的でつまらないという人がいたら、その人はカテゴリーを間違っていると考えるだろう。その作品を正しく知覚する人にとっては、作品の特徴が絶対的に標準的、可変的、反標準的なものになる。

 

作品が正しく知覚されるようなカテゴリーは、どのようにして確定されうべきなのだろうか?

Ⅰあるカテゴリーにおいて、標準的な特徴が比較的大量に存在すること。

Ⅱあるカテゴリーにおいて、知覚されたとき、他の仕方で知覚されるとき、作品はより美的により良く見える場合。

Ⅲ芸術家があるカテゴリーにおいて作品を知覚されることを意図、期待すること。

Ⅳ慣習。作品が制作された社会において、カテゴリーが確立している。そのカテゴリーに属することを言及すること、まとめてそのカテゴリーに展示している。

 

Ⅱの検討。作品がよいものに見えるとき我々は、どのようなことができるのか。

a長所を邪魔する特徴を、標準的特徴とみなすことで和らげることができるかもしれない。

bクリシェの乱用によって作品がだめになる場合、そのクリシェが可変的、反標準的とみなすことで、その作品を活気づけられるかもしれない。

cある作品が作者やその作者の社会にとって完全に異質なカテゴリーにおいて知覚されることで傑作だという印象を与えるにしても、そうした見方がその作品の正しい見方になることはありえない。

 

シェーンベルクの十二音音楽の例。彼の音楽が当時理解されていなかった場合でも、十二音階のカテゴリーで聞かれるべきだ。この主張をする場合、Ⅱでは不十分で、Ⅲの作者の意図が大事。

ウォルトンはおそらくカテゴリーの確定にはⅢとⅣが重要と述べる。

 

結論

・歴史的事実において、正しいカテゴリーにおいて知覚せねばならない。

・正しい知覚の仕方が確定されたら、その作品について正しい判断ができるなどと期待してはならない。その適切なカテゴリーに属する多くの作品に親しみ、訓練をしなければならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ノエル・キャロル 『批評について 芸術批評の哲学』

 

  • 価値づけとしての批評

批評とは理由に基づいた価値づけである。(以下 反論→ キャロル⇒)

 

→キャロルは記述や解釈といった価値づけを支える作業から現れてくると言うが、価値づけはそれらに先立っているだろう。(注意を向けているという点ですでに特別視している)

 ⇒作品を毎回自分で選別するわけではないし、自分で選んでも否定的な評価をすることはある。作品の価値以外に、有名な人が制作したとか、経済的、政治的理由で選ばれることもある。

→価値づけは批評にとって必要条件ではない。

 ⇒明示的ではないかもしれないが、やってはいるのでは。

→価値づけの批評とは、芸術家がルールに従っているかを判定するものなのでは?しかし、そんなルールなどはないだろう。

 ⇒価値づけの対象は効果、結果であり、ルールに従っているという制作過程ではない。あと、比較不能みたいな唯一独自の芸術作品も認めていない。

→批評の価値づけに基準はあるのか?

 ⇒一般的な基準はあり、批評の際に根拠になりうる程度には、「カテゴリー」に照らしあわせて考えることができる。

 

  •  批評の対象

・批評の対象は芸術家が作品を通じて何をやっているかであるのか。目的を達成できているか。作品の価値は芸術家の達成である。

成功価値:芸術作品の価値は作家がそれの作品によって何を達成したのか。

・受容価値:鑑賞者が作品経験から引き出してくる価値。

・キャロルは成功価値を擁護する。受容価値だと、精巧な贋作をうけいれてしまうことなになるなど。

・批評は芸術家の意図に結びついているとキャロルは考えるが、反論もある。

・アクセス不可能論法:意図はアクセス不能

 ⇒日常生活や、他の学問(考古学、歴史学)では記録のない他者の心を読んでいるではないか。意図の特定としてはカテゴリを考えることが役立つ。

・循環論法:作品だけからしか、芸術家の意図は推測できない。作品=意図内容ならば、作品と意図を比べるときに、作品を作品に照らさなければならない。これは循環だ。

 ⇒意図はインタビューとか作品以外でも、推測の根拠にはなる。作品だけを見た場合でも、行為者の意図と、その意図遂行の失敗の二点を同時に見て取れるということはよくある。バスケットボール選手の失敗など。ゴールしたかった。でもできなかった。

芸術家は称賛されたいがために、意図を低く設定すればよいということにならないか。

 ⇒心配しすぎ。

達成論法:達成したことが大切であり、意図を気にする必要はないのではないか。

 ⇒批評家が気にすることはもちろん達成したことなのだが、意図はその達成がどのようなものなのかを把握するために必要。

 →作者が意図通りに作品をつくれないこともあるのでは?

 ⇒その通りだが、意図しない結果になったということを同定するためにも意図はある程度理解しないといけないよね。

 →意図主義を採用すると、ひと昔前の作品(性差別という概念がなかった時代)に対して、性差別的であるとする批評は言えないのでは?

 ⇒批評する人は、芸術家の意図の方向性はわかっているだろう。

・作品そのものが批評の対象ではなく、芸術的手腕である。

 

  • 批評の対象

・批評は以下によって価値づけの根拠が示される。以下の作業が1つもしくは、いくつかは含まれていなければならない。

記述:芸術作品がどのようなものかを民衆に伝える。

分類:どのカテゴリーに作品が属するのかを民衆に伝える。

文脈付け:作品をめぐる環境、芸術史や制度、社会文化の記述。その時代のカテゴリーにおいて解決が求められている課題。

解明:芸術作品の中にある象徴記号の文字通りの意味、狭義の意味の特定。(絵画に描かれた人は誰だ? 描かれたものは何を示すのか)

解釈:主題的意義、物語的意義、メタファーの眼目の調査など。テーマ、コンセプトは何か。製作者が何を意図、意味しようとしていたのかを探求する。

 →解釈と解明、記述は絡み合っている。解釈と記述の違いは、解釈は真たりえないからではないか。間違っているのもあるかもしれないが、どれかは真実であろう。

 ⇒解釈はたくさんある。作品のすべてを十全に記述することは不可能だ。

分析:当の芸術作品がいかに機能しているかを説明する作業。解釈は分析の一部であるが、それだけではない。効果、機能、統一性など。よくわからない。

 

作者の意図について

・反意図主義、慣習主義は皮肉、ほのめかしを説明することができない。解釈とは、慣習のような機械的なものではなく、語用論的なことがら。

→意図されていなかった作品の価値をひていすることになるのでは?

⇒作品の要素を容認したという意味で、少なくとも意図的である。

・仮説意図主義:理想的鑑賞者による推測。公的に出回っていないものは許可しない。

穏当な現実意図主義(キャロル):合理的に製作者の意図に基づいて解釈されなければならない。記録などを解釈しながら。

→読者が意図と受容として決めるのはありか?

⇒小説ならまだわかるが、建築、絵画はどうだろうか。他の作品との比較の基準は作れるのか。

 

  • 価値づけ―問題と展望

・批評は主観的か?キャロル:客観的

・ヒューム:美とは芸術作品から私が引き出す快である。その意味では主観的だが、同じように作られた人間ならば、同じ快を引き起こすと想定されるべきだ。

⇒美しいかどうかを決定することだけが批評のすべてではない。美以外で評価されている作品もある。主観的な味わうことを、小説を鑑賞することと同じようなものだといえるのか。(批評が主観的だといわれるのは、趣味の行使、美―快の感覚―を感知することが問題だからだ。)

→ある芸術作品を何が成功させるのかについての一般的なルールがない以上、批評は客観的なものではないですよね?アイゼンバーグ(性質Fを持つ芸術作品は良い作品だといえる批評原理は存在しないだろう)

 ⇒作品の種類に関係なく、作品の良さを向上させるような包括的な特徴など、法外な要求だろう。価値づけには、カテゴリーの範囲を考えれば、当の芸術作品のジャンルで成功とみなされているかはわかる。

 →作品をどのカテゴリーに分類するかの選択それ自体は、批評家の主観的なプロセスでは?

 ⇒分類(カテゴリー)を支える客観的理由は三種類ある。

  • 作品の構造:特定のカテゴリーを確実視されている作品と典型的な特徴の共有。
  • 芸術史の文脈におくこと。

→なぜカテゴリーは歴史的に正しいものでなくてはならないのか。美的快楽を与えるものというカテゴリーではだめなのか。

⇒問題が芸術家の達成ではなく、いかなる分類が鑑賞者を楽しませるのかに代わっている。

  • 芸術家の意図に関する理由

・アイゼンバーグは、1つの長所を求めたが、キャロルは多元的カテゴリー的アプローチをとる。異なるカテゴリーに属しそうな作品も、たいていの作品は複合的であり、カテゴリーが重なっているものは比較できる。カテゴリーが離れすぎている作品の比較の説明としては、

・別のカテゴリーの傑作と駄作の比較。

・社会的な暮らし。(文化的重要性)