ごっこ遊びの人生より

雑食ですが、主な関心は哲学とアニメ

ポール・ブルーム 著 夏目大 訳『苦痛の心理学 ――なぜ人は自ら苦しみを求めるのか 』

今回読んだのはこちら

 

本書は、「人は苦しみを避けようとする一方で、なぜ登山やホラー映画、激しいスポーツのように、あえて苦しみを伴う経験を求めるのか」という一見矛盾した問いを、心理学や進化論の観点から考察した一冊である。

 

率直に言えば、本書の結論そのものに大きな驚きはなかった。というのも、「適度な苦しみは人生を豊かにする一方で、過度な苦しみには価値がない」という考え方は、私自身が以前から抱いていた直観とおおむね一致していたからである。そのため、本書は新しい結論を提示するというよりも、その直観を心理学や進化論の知見によって裏付けることに役立った。

 

本書の著者の主張は、大きく三点に整理できる。

第一に、自ら望んで引き受ける一定の苦しみは、人によっては喜びや充実感の源泉となり得ること。第二に、充実した人生には快楽だけでなく、意味ある目的や目標が不可欠であること。第三に、そのような価値ある目標に挑戦する以上、苦しみは避けられないということである。

もっとも、著者は苦しみを過度に美化しているわけではない。人は困難な経験を通じて成長したり、他者への共感を深めたりすることがある一方で、耐え難い苦しみは心身を傷つけ、人生を損なう場合もある。したがって、苦しみは多ければ多いほど価値があるわけではなく、その程度やタイミングが重要であることも強調されている。

 

本書の中で興味深かったのは、第三章で論じられる「なぜ人はホラーや悲劇を楽しめるのか」という問題である。

著者は、①苦しみを乗り越える過程そのものに快を感じること、②恐ろしい状況を想像することが現実の危険への備えとなること、③善そのもの悪そのものに人は魅力を感じること、という三つの説明を提示している。

もっとも、この点については哲学的な観点からさらに掘り下げる余地があるように感じた。フィクションの美学でこのあたりはどのように議論されているか興味がある。

 

本書は心理学や進化論を用いて「なぜ人は苦しみを求めるのか」を説明しているが、本格的な「苦しみには本当に価値があるのか」「価値があるとすれば、それはどのような価値なのか」という規範的、価値論的な問いには踏み込んでいない。身体的な強さや他者への優しさが向上する、人生の意味へ貢献する価値があるぐらいの説明であったので、ここから先は哲学がやるべき課題であろう。

また、私自身は欲求の実現のために苦しみを求める人ではあるが、全く苦しみを求めない、経験機械に自ら入っていくような人々の人生もそれはそれで悪くないのではという直感もある。ここら辺も今後考えていきたい。

 

まだ読んではいないが、苦しみの価値について書かれている以下の本も読んでみたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本マンガ学会第25回大会 研究発表を見に行ってきた

www.jsscc.net

 

マンガ研究に興味があり、学会というものがどういうものかを知るためにも学習院大学まで行ってきた。見てきた発表は以下の4つ。翌日のシンポジウムもマンガ研究で有名な方がでており面白そうではあるが、やることがあったので行かないことにした。

 

研究者の方はもちろん、マンガの翻訳をされている方、かつて美少女ゲームを制作されていた方など、聞き耳を立てていると面白そうな方々が集まっていた。

今回の発表を聞いていて改めて思ったが、私は人の話しを真剣に聞くのが苦手なのかもしれない。発表者の方に質問したときも、発表と同じことを繰り返させているような気がした。どうにか改善したい。

また、最近全然マンガを読んでいないので読まなきゃなぁという気持ちにさせられた。発表者や質問者の方の熱量をみると原作ありのアニメを見て、原作マンガを読んだ気になってはいけないのだと思った。

 

以下、聞き取ったメモとうろ覚えの記憶を頼りに書いているので、間違いがあればコメントで訂正していただければ幸いです。

 

 

「オホ声」の形成と伝播—2000-2020年代の二次元ポルノにおける絶頂表現の分析
森田百秋(京都精華大学大学院)

マンガ、ゲーム、同人音声などで見られる「オホ声」という嬌声の表現の歴史の発表。エロマンガや同人音声を楽しんでいる人間としては興味深いものだった。

森田さんの分析では以前はそこまでうけてはいなかった二次元ポルノっぽくない「オホ声」が素人ものなど様々なコンテンツを通して受容者側が良いと思う感じに変化していると主張されていた。

 

発表では少しだけ事例の紹介で「オホ声」が流れる瞬間があり、謎の緊張感があった。

 

現代美少女キャラクター表現における「塗り」の成立—1980-90年代のCG制作趣味と「美少女ゲーム」のCGを中心に
田良島津(京都精華大学大学院)

キャラクタ―では造形や線ばかりが注目を集めやすいが、この発表では色を付ける「塗り」に注目していた。

8bitのときはいわゆるアニメ的な表現が流行したらしいが、16bitでは徐々に独自のメディウム・スペシフィティを追求し、より絵画的になる。光と影の強いコントラストを使って、平面に立体感や劇的な効果を生み出すキアロスクーロが強調され、実線が見えなくなる。このような表現はエロマンガでもとりいれるようになったらしい。

この発表では90年代までだが、ゼロ年代以降はいったんこのようなスペシフィックな追求は終わり、違う変遷をしているような気もしている。

 

『NARUTO -ナルト-』の光学的リアリズム―曲面遠近法空間における歪みの構造
下村悠太(九州大学大学院)

ナルトの歪み表現についての分析。メモがしっかり取れなかったのであんまり書けない。修士論文をもとにしているらしい。

 

マンガのグローバルな受容における日本的「ハイコンテクスト文化」の機能―表現形式とナラティブの分析
石橋理恵子(ニューパルツ大学・ブルックリン大学)

北米におけるマンガ受容の発表。発表のハイコンテクスト文化とはエドワード・ホールの概念であり、日本のモノクロであり、意味を満たさない空虚な記号性が想像力や没入感、共感を駆り立てるものになっているという分析。

 

「現代ホラーマンガ」における〈表現様式としてのJホラー〉の展開―「モキュメンタリー」・「心霊写真的なもの」・「人間ならざるもの」の表現方法に注目して
雑賀忠宏( 開志専門職大学)

Jホラーのマンガ表現を分析したものであり、とても面白いものではあったのだが、レジュメが品切れで手に入らず、あまりメモもとれず、詳細なものが書けない。

Jホラーのモキュメンタリーにおいてはマンガにしたときにただのストーリーマンガにしかならないことや、心霊写真的なものを同じような絵を何度も出していく反復的な表現を指摘していた。また、モンスターや普通のおじさんに怖いと思わせるところで描線を過剰化させているという指摘があった。

アニメ表現とホラーの相性についても質問したが、アニメにはマンガのような読者をじらしたりする不自然なコマの宙づりな感じがないので怖くならないのではという回答をいただいた。しっかりとした具体的なアイデアはまだないらしい。

日本ではホラーアニメが少なく、マンガがアニメになってもマンガほどの恐怖をあまり感じないと私は思っている。ここらへんは私もしっかり考えたい。

 

 

 

 

アニメーションの哲学・美学的な文献を読んでみた

アニメーションに対して、哲学・美学分野からのアプローチをしている文献がいくつかあったので読んでみた。今回紹介するのは以下の3つ。

 

鈴木潤(2024)「『作画が良い』とはどういうことか ーアニメの作画を批評する方法」

『フィルカル Vol. 9 No. 2』の論文。

タイトルのとおり、アニメにおける良い作画を我々はどのように評価したらよいかという問題について論じている。ここでいうアニメは日本でよくみられる作品、『チェンソーマン』『創聖のアクエリオン』などのような商業的なアニメ作品が対象になっている。

鈴木さんは「良い作画」とは「上手い作画」であると主張する。

[定義]「作画の上手さ」

作画Sは上手い。Iffdf作画Sは高度な技術を使って描かれ、かつ従属するアニメ作品に何らかの美点を付与する。

ここでいう高度な技術とは、アニメーターの技術のことであり、論文では高度な技術を持つ事例として井上俊之、沖浦啓之、大平晋也、湯浅政明などが挙げられている。

アニメ作品に付与される美点については、美学者ケンダル・ウォルトンのカテゴリー論とアニメの特徴から論じられる。ウォルトンによると、我々は作品をあるカテゴリーにおいて知覚している。我々はゲルニカをキュビズムとして、チェンソーマンをアニメというカテゴリーとして知覚することができる。

我々はカテゴリーを作品の中から標準的特徴を見出し知覚するとウォルトンは述べるわけだが、アニメの標準的特徴を、論文の中では3フレームに一枚のペースで描いた絵を動かす「3コマ作画」で生み出される「シャープでケレン味のある動き」としている。

論文の後半では作画批評の実践の手引きとして、ヌルヌルしている作画が良いとは言えない事例、静止した際の絵の破綻の作画が必ずしも悪いわけではない事例が紹介されている。ここらへんはXですぐに作画崩壊だと言い出す人たちに読んでもらいたい。

作画批評に興味がある人には絶対おススメ。論文の中でも紹介されている「アニメスタイル」を読んで私も作画について勉強したい。

鈴木さんのブログ ではアニメのレビューや文献が紹介されている。

(余談)この論文で主張されている「上手い作画」=「良い作画」であることには概ね賛成なのだが、いわゆる「作画崩壊」の中に宿る独自の良さ(一種のGood-Bad Artな価値)についても考えてみたくなった。つまり、アニメーターが上手くしようとしたが、できなかった作画ゆえに作品に寄与している美点みたいなこと。これは論文の中で紹介される境界事例、上手くないがゆえにキャラクターの粗暴さにあっている俳優や、魅力や個性がある歌が下手なアイドルとも異なり、偶然がもたらした良さであると思う。

まあ、この場合は本来制作者たちが目指したアニメのカテゴリーではなく、作画崩壊アニメというカテゴリーの中での良さにはなると思うのだが。

 

難波優輝(2019)「アニメーションの美学-原形質性から多能性へ」

映画の哲学や描写の哲学を手がかりにアニメーションならではの特徴について考える論考。アニメーションならではの特徴としてよく取り上げられる「原形質性」を明確に分析している。

難波優輝(2019)「アニメーションにとって音/楽とは何かー一致と残余の音楽理論」

上記の論考同様に分析美学的な視点からアニメーションに関わる音楽、音についての機能の分析をしている。上の論考同様、整理を中心としたもので、私の勉強不足ゆえに特に書くことがない。ここらへんは勉強や鑑賞を重ねていくなかで再度読み直そうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時雨沢恵一 『キノの旅XXIV the Beautiful World 』

去年出たキノの旅の最新刊。

高校時代から読み続けているラノベであり、私が哲学を学びたいと思ったきっかけの一つ。5年ぶりの新刊であり、そろそろ最終巻かなと思っていたら、まだ続くらしい。いくらでも続けられる作品ではあるが、どこまでやるつもりなのだろうか。

前作を読んだときはネタ切れを感じたが、久しぶりに読んでみると、世界を皮肉るようないつもの感じが面白く感じた。

 

 

綺麗になれる国

人間の心が洗濯できる国の話。私もこのランドリー欲しいな。

射撃場の国

人がいるところでも射撃する国の話。怖いなあ。

運ばれる話

キノとエルメスが貨車で運ばれながら、ある花のことを乗客にきいて回る話。

人の見方によって真実が変わるということか。

温度差のある国

家や職場で繰り広げられるエアコンの温度問題を国単位でやる話。

最後の結末は地球温暖化での人類の暮らしを暗示しているのかも。

試される話

ソウとフォトが自然保護管の訓練を見に行く話。展開は読みやすかった。

若い国

若さがあればなんでもできるわけではないんだ。

冗談が通じない国

昨今のコンプライアンスを皮肉ったような話。

ライフルの話し

キノの旅のキャラクターたちであるライフルを回していく話。この本の中で一番長い。

言い換える国

いくら言い換えて印象を変えても、やってることは変わらないよなぁ、怖いなぁという話。

×××××の旅

旅をしている×××××とキノとエルメスが会う話。

これは25年読み続けてくれた読者に向けて書いてくれた話だろう。

力を与えられた国・ab

巨人がある男の命令をきいてくれる話。

力をもつ人も力をどう使えばわからなくなるし、命令をきくほうも考えるのが面倒だから従っているのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』

 

アニメ・マンガ研究にかなりの頻度で出てくる2001年に書かれたオタク評論の本。当時の評価はどうだったのかは知らないが、「何を根拠にそんなことを言っているの」みたいなことがたくさん出てきて、ツッコミ疲れた。ただ、当時の雰囲気を感じるには短いし、ちょうど良い本。

データベース消費は確かに今にも通じるように思う。だが、これを全て受け入れると魅力がある作品やキャラクターも全て代替可能なものになってしまうのではないかとも思った。色々なキャラクターに萌えるオタクの行動(AもBも俺の嫁みたいな)はデータベース消費で説明はつくが、鑑賞者が楽しみたいデータベースの要素があるのであれば、作品やキャラクターにはこだわらないみたいな態度はあまり良いものだとは思えない。私は作品やキャラクターの唯一の魅力や価値をなるべく信じていきたい派なのだが、芸術的価値の議論を勉強していると自信がなくなってくるのが最近の悩み。

 

自然主義とは別のゲーム的な作品のリアリティ(ゲーム的リアリズム)について考察した本。気になるのは死の表現について。本書のなかで取り上げている『All You Need Is Kill』で東は一回かぎりの生を生きるしかない普通のキャラクターに対し、複数の可能性の横断しながらも、結局1回かぎりの生しか与えられていないループするキャラクターの残酷さを分析している。

ループ系作品を見るたびに思うのだが、途中のループで死ぬヒロインAと最終的に生き残るヒロインAを主人公的は同じ人物だと思っているのだろうか。それとも違うけど、近しい人物だから生きてくれて嬉しいみたいな感じなのだろうか。

 

 

鈴 『アニメ鑑賞が爆爆爆爆爆発的におもしろくなる演出の話』

 

アニメの演出家による演出の本。基本的には演出がどういったものなのか、ざっくり書かれている入門書のようなもの。簡単に演出について知りたい人にはおすすめ。これ以上細かいところを知りたい人は映画の映像分析やアニメの解説をしている人たちのブログを読んだりして勉強するしかない。著者のブログも参考になると思う。

著者のブログ 

前半は演出の役割やアニメ演出家のあるあるなど。

中盤は具体的な演出について。カメラワーク、構図、色彩について。

カメラの首を横にふること(横PAN)、カメラを縦にふること(縦PAN)、被写体に近づくこと(T.U.トランクアップ)、 離れる(T.B. トランクバック)、動いている被写体を追う(FOLLOW)の解説など。

キャラクターの位置の意味について

  • 上手(画面の右側) 上位、安心、上手に移動(上昇、勝利、希望、ゆっくり、遅い)
  • 下手(画面の左側) 下位、不安 下手に移動 (下降、速い、敗北、絶望)

例として、リゼロ18話で下手から上手へ移動する主人公スバルのことが書かれている。リゼロはスバルとだれかが対峙するシーンが多い。セカンドシーズンのスバルとベアトリスの会話のシーンも分かりやすく、ベアトリスが下手にいて、ベアトリスを助けるスバルが上手にいる。

後半はアニメジャンルごとの見所の解説。

本の内容とは関係ないけれど、日本のアニメって何でホラーが少ないのだろうか。やるにしても原作ありでやるイメージだし、モンスターホラーのオリジナルアニメって聞いたことがない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

銭 清弘 『芸術をカテゴライズすることについて 批評とジャンルの哲学』

分析美学の研究から批評とは何かについて考える本。批評の哲学の文献は本書でも紹介されるヒュームやキャロル、ウォルトンについて読んだことはあるが、あまり理解できていなかったことが今回読んでみて判明した。本書は批評とは何かを明らかにすることを目的としてはいるが、大部分は私たちの鑑賞行為について分析している本である。個人で完結しそうな鑑賞であるが、著者は私たちの社会的営みに基づいている行為であることを主張している。主観主義はそんな簡単に主張できないんだぜ!と常に考えている私にとっては喜ばしい本だった。(主観主義の意見を上手く取り入れているところも良い点)

以下、著者の銭さんによる本書の紹介、解説。

本が出ます📣|『芸術をカテゴライズすることについて』はこんな本|obakeweb

本が出ました📣『芸術をカテゴライズすることについて』|方法論的な背景についての補足、Walton (2007)をもとに - obakeweb

【特別寄稿】ウェブ用あとがき 優れた批評家になるにはどうすればいいのか?『芸術をカテゴライズすることについて』|慶應義塾大学出版会 Keio University Press

 

第一章 批評とは鑑賞のガイドである

批評とは鑑賞のガイドであると主張する章。はじめにでも書いてあるが、本書の批評はかなり広く見積もられている。映画のレビューをSNSに投稿する、バンドについて友人と語り合うなど、批評とは批評家先生だけがやるものではないことになっている。批評とは作品について分析したり、解釈したり、価値を評価したりなど様々なことをしているが、おおむね作品を鑑賞するうえでのガイドとしてまとめられる。良い批評とは鑑賞をより良い方へガイドするものであり、悪い批評はこれに失敗しているものである。以下は鑑賞ガイドではないとする反論を検討する。

・もう2度と鑑賞できない作品の批評はガイドではないのではないか(会期の過ぎたインスタレーション展示、1回限りのパフォーマンスアートの批評)

 →鑑賞は実物に直面しなければできないわけではない。複製物や記憶を通しての作品を鑑賞と認めるならば、読者は批評を通して間接的に、鑑賞できる。

 →もし作品に直面したならば読者がするであろう鑑賞的反応を想定し、反実仮想的なガイドとして修正してみる。

・鑑賞ガイドさえあれば批評と言えてしまえば、多くのものが批評と含まれて過ぎるのではないか(順路の標識、シットコムの笑い声など)

 →一時機能が鑑賞ガイドとは呼べないものがある。伝記はあくまで歴史的事実の伝達であり、個別作品の鑑賞ガイドではない。

 →鑑賞のガイドとは説明ないし理由づけによるガイドである。シットコムの笑い声はガイドになるが、説明によるガイドではないため批評ではない。だが、クラシックの演奏による解釈など批評とは本来扱われていないアイテムもたくさんある。

・酷評は鑑賞の妨げになりそうだが、ガイドになるのか

 →鑑賞には肯定か否定かだけではなく、時間や知覚的、認知的コストをかけた深さがある。酷評でも鑑賞を深めるという点においてはガイドになる。

第二章 鑑賞とは単なる好き嫌いではない

批評とは鑑賞ガイドであるというが、鑑賞とはそもそもなにかを検討する章。鑑賞はそもそも人にアーダコーダ言われるものではなく、人それぞれ評価するものなのだから、ガイドなどしなくてもよいのではないかというのがこの章の問題である。著者はこのような主観主義の立場をいくつかに分類し反論している。

・報告説:鑑賞は好き嫌いの報告である。

 →意見対立はなぜ成立するのか、教育の可能性(勉強して鑑賞をより良いものにする)をどのように説明するのか。

・伝達説:鑑賞は好き嫌いの伝達である。好みをぶつけて説得する試み。

 →伝達者は自分がその作品を好んでいるだけではなく、それが好むに値すること作品だと伝達していることになる。批評を否定する立場ではない。

著者によると客観的な側面は必要だが、やはり主観的側面も捨てがたいがため、理論を提唱するうえで以下の制約を導入する。

・客観制約:鑑賞の合理的な査定可能性を認める。

・主観制約:鑑賞者の好き嫌いになんらかの積極的な役割を認める。

以下の議論は以上の制約に説明を与えようとしたヒューム的説明とその批判。

・ヒューム的説明(エリート主義):主観的な好き嫌いは認めるが、理想的鑑賞者(客観的に有能な鑑賞者)の共同評決が客観的な基準になる。時代や文化圏によっても理想的鑑賞者の評価は違うかもしれないが、共同的に好まれていることは十分な根拠になる。

 →理想的鑑賞者(個人、集団にせよ)に好まれているということが非理想的鑑賞者である私と関係があるのか。なぜ同じように価値ある作品を気にかけなければいけないのか。⇒理想的鑑賞者に近づき、同じように作品を楽しめるようになれば、鑑賞における快楽を最大化することができる。

 →楽しめていない作品を楽しめるようにすることは理想的鑑賞者に近づくことを理解させるが、楽しめている作品を手放す理由(過大評価をやめる理由)にはならない。快楽を最大化させることを考えるならば、理想的鑑賞者にならないほうがいいのでは。

 →ヒューム的説明の帰結は誰もが同じような傑作を好み、そうでない作品を嫌っている世界である。そこには鑑賞者の個性もなく、意見対立もない悪夢のような画一的な世界ではないか。個人の愛着の説明ができない。

第三章 鑑賞とは卓越性の測定である

ヒューム的説明は上手くいきそうにないので、本書は別の立場を目指す。ヒューム的説明は主観的側面から客観的側面に向かうアプローチだったが、本書の方針は客観的側面から主観的側面に向かうアプローチをとる。

・アリストテレス的説明(目的論アプローチ):作品を特定のカテゴリーと結びつけ、目的の達成度に即して価値を評価する。(悲劇作品は悲劇たらしめる目的があり、個々の作品が目的を達成しているかに即して評価する。アリストテレスの悲劇作品の目的はカタルシス)

目的論アプローチをとる批評家は作品の価値を根拠とともに鑑賞者に理解させることであり、好き嫌いをガイドするわけではない。このアプローチは2章で批判されたヒューム的説明の問題点をクリアしている。

・作品がその目的を達成しているかどうかは多元的であるため、理想的鑑賞者のような画一的な世界にならない。

・過大評価は快楽の最大化を阻害することではなく、正しい価値(目的とその手段に訴えられること)を理解するという意味でやめるべき。

・美的なものと芸術的な側面を区別しているからこそ、主観的制約は満たさないが目的論アプローチは正当化される。

第四章 鑑賞はカテゴライズに依存する

アリストテレス的説明ではある芸術作品のもとで観るべき観点をどのように決めればよいのか。作品の本当の目的は何か、どのカテゴリーがふさわしいのか。四章では美学者ケンダル・ウォルトンの論文「芸術のカテゴリー」の精査を通して、観点という問題を検討していく。

ウォルトンの主な主張は次の3つのテーゼである。

・主観的テーゼ:作品を鑑賞するカテゴリー次第で、特徴への重みづけが変わり、知覚される美的性質も変わる。

・規範的テーゼ:作品には、そのもとで鑑賞するのにふさわしい特権的カテゴリー(Nカテゴリー)がある。これは文脈的なものを含む一連の考慮事項(①標準的特徴との適合、②美的により良い経験にするもの、③作者の意図、④社会においての確立)を通して決定される。

・認識論的テーゼ:カテゴリーに依存した美的判断にとって、狭義の知識は必要でも十分でもない。美的判断は知識を動員した推論ではなく、学習を経た知覚だけに基づいて下される。

この論文は反文脈主義(作品がどう見えるか、聞こえるかを重視する立場)を念頭に書かれたものである。カテゴリーなどの文脈は大事ではあるが、美的判断はあくまで知覚によって基づいてされるものであることを主張している。

ウォルトンに対する疑問

 →美的判断の形成においてカテゴリーの役割を1つしか取り上げていない。美的判断の形成においては知識が影響するのではないか。

 →美的判断の正当化(適切な判断なのかを熟慮すること)において、カテゴリーの役割についてほとんど述べていない。

  • 贋作というカテゴリーに属するだけで美的判断や評価的判断を控えさせること。
  • 一連の作品群都の比較検討による美的判断
  • 目的論的なカテゴリーの役割(ホラーの構成的目的は怖がらせること)

第五章 カテゴライズは単なる分類ではない

四章に引き続き、論文の精査。著者によると、多くの論者がウォルトンの主張するカテゴリーをNカテゴリー(規範的カテゴリー)とCカテゴリー(分類的カテゴリー)を混同しているそうだ。著者は以下の議論から交差説を擁護する。

・同一説:作品を鑑賞するうえでふさわしいNカテゴリーは作品が属するCカテゴリーと同じもの。

 →ウォルトンが知覚的カテゴリーについて問題にしているならば、ゲルニカスカテゴリーにも属しており、排除することはできない。属しているにも関わらず、ゲルニカをゲルニカス以外のカテゴリーで鑑賞するという理由が必要。

・部分説:Cカテゴリーのなかから規範的テーゼによる考慮事項により、Nカテゴリーを特定する。NカテゴリーではないCカテゴリーはあり、ゲルニカは1937年に製作された絵画という考慮しても仕方がないカテゴリーがある。

 →革新的な作品であるジョン・ケージの『4分33秒』、マルセル・デュシャンの『泉』、カジミール・マレーヴィチの『黒の長方形』の鑑賞における奇妙さを説明できない。

・交差説:CカテゴリーではないNカテゴリーがある。任意のカテゴリーの中からNカテゴリーを直接見つけるのであり、Cカテゴリーとは関係がない。『4分33秒』のCカテゴリーではない古典音楽をNカテゴリーとして認めれば、奇妙さについて説明することできる。作品がどのカテゴリーに属しているかと作品をどう鑑賞すべきは別のことである。

第六章 ジャンルとは鑑賞のルールである

カテゴリーとはそもそもなにかを検討する章。本章ではメタカテゴリー(芸術のカテゴリーのカテゴリー)に着目する。ホラーはジャンル、バロックは様式であり、俳句は形式、絵画はメディウムみたいな分類のこと。カテゴリーが複数のメタカテゴリーをまたいでいることもある。ブルースはジャンルであり、様式であり、形式である。著者によると、カテゴリーとは何かという問いはジャンルとは何かという問いに置き換えられる。ジャンルというメタカテゴリーはどういう特徴なのか。それは様式や形式などの他のメタカテゴリーと何が違うのか。以下ジャンルとは何かという議論。著者は統制説を擁護する。

・分類説:ジャンルは作品を分類するための諸概念。ある作品はあるジャンルの標準的特徴をより多くもつことで、そのメンバーとしてより適格なものになる。

 →分類説は表象的性質(犯罪ものは犯罪事件の描写)あるいは情動喚起(コメディは笑いの機能)との結び付きを考えるかもしれないが、上手くいかない。典型的な音楽ジャンルは表象的性質や情動喚起を追跡しているようには思えない。実際のカテゴリーは複数の特徴をもつハイブリッドなものであり、ジャンルかつジャンルのみがもつ特徴は存在しない。コメディは人を笑わせる機能だけではなく、愉快で楽観的なムードもあり、SFは未来や宇宙といった場面設定だけではなく、認知的洞察を与える機能もある。

 →ある作品が標準的特徴をもつことがあるジャンルに属するということとそのジャンルの規範的効力により鑑賞や批評が左右されるというわけではない。XはKに属するという事実がXのもつ価値やXに対してどう反応すべきかについては何も述べていない。

・統制説:ジャンルとは統制的なカテゴリーである。社会集団の信念やふるまいによって確立される鑑賞のルール。ジャンルは美的評価のルールを左右するだけではなく、解釈も統制する。西部劇ならば舞台はアメリカだと解釈する、ミュージカルで突然歌やダンスを踊るのは不思議ではないなど。鑑賞のルールと分類のルールは構成的なルールと統制的なルールに対応している。構成的ルールとはどのような条件において社会的な対象や出来事(貨幣、ハラスメントなど)が成り立つかを規定するルールであり、統制的なルールとは社会における人々のふるまい(運転の仕方のような)を指定するルールである。形式や様式は構成的なカテゴリーにあたる。(ジャンルとしての用法をもつ場合もある)

第七章 ふさわしいジャンルとは制度である

ふさわしいジャンルとはどのように決まるのかを検討する章。著者の立場は制度主義。

・意図主義:ふさわしいジャンルは作者の意図によって決まる。

 →鑑賞や批評に対して、やりすぎな決定権を作者に与えてしまう。

 →作者が意図しえない、拒否したジャンルにおいて鑑賞されることがある。

 →鑑賞や批評に先だってふさわしいジャンルが決定していると考えるのは困難。

 →作者の意図に反するからといって、ただちに失礼に当たるわけではない。

・制度主義:ふさわしいジャンルは制度によって決まる。制度は協調ゲームにおけるルールでありかつ、均衡の考え方で説明してる。作品にふさわしいジャンルは鑑賞者(私たち)にとって良いから決定される。これは芸術のカテゴリーの考慮事項で軽視されがちな②美的により良い経験にするものを重視した考え方である。

・著者のまとめ:アリストテレス的説明は作品の卓越性としての芸術的価値を測定する営みである。だが、その測定の基準(観点、ジャンル)はどうやって決めればいいのか。それは多かれ少なかれ鑑賞者の好き嫌いの問題になる。鑑賞者は作品の鑑賞がより最適化(より楽しく、より快楽が多く、多くの理解や洞察を得る)するための基準を社会的相互作用(制度主義)によって決めていく。これは主観主義のような相対主義ではなく、極端な客観主義でもない第八章で提唱される観点主義の考えである。

第八章 批評の意義は判断の柔軟性を養うことにある

私たちはなぜ批評を読んだり、書いたりするのか、批評の意義を問う章。鑑賞をゲームプレイや遊びの考えを参考にしながら検討する。ジャンルは鑑賞のルールとして理解されるが、鑑賞者は常にジャンルを順守するのではなく、新たなジャンルを創造する。芸術鑑賞は様々な観点の間を行き来できるという点において柔軟性を養う。そして、芸術批評は未だ提示されていない未知の観点を探り、それを擁護するためのラディカルな柔軟性を養うものである。

はじめに
 1 なにについて論じるつもりなのか
 2 どう論じるつもりなのか
 3 なにを主張するつもりなのか
 4 なにを論じないのか

第一章 批評とは鑑賞のガイドである
 1 批評とはなにか
 2 鑑賞ガイドではない批評があるとする反論に応答する
 3 批評ではない鑑賞ガイドがあるとする反論に応答する
 4 酷評も鑑賞ガイドなのか
 COLUMN 選択ガイドとしての批評観

第二章 鑑賞とは単なる好き嫌いではない
 1 芸術鑑賞は好き嫌いの問題なのか
 2 素朴な主観主義に反し、鑑賞は単なる好き嫌いの問題ではない
 3 ヒューム的説明――鑑賞は好き嫌いの問題だが、鑑賞者については有能さが問えるとする見解
 4 ヒューム的説明の問題点――理想的鑑賞者は一方で十分な権威を持たず、他方で過度な権威を持つ

第三章 鑑賞とは卓越性の測定である
 1 鑑賞の客観的側面から出発する
 2 アリストテレス的説明――鑑賞は好き嫌いの問題ではなく、特定の目的に照らした測定だとする見解
 3 主観制約を満たさないことは美的なものと芸術的なものの区別によって正当化される
 4 アリストテレス的説明に残された課題――観点選択の問題
 COLUMN ムーア的説明?

第四章 鑑賞はカテゴライズに依存する
 1 カテゴライズが鑑賞を左右するとはどういうことか
 2 反文脈主義から文脈主義への移行
 3 美的判断はカテゴライズによって左右される
 4 美的判断論から芸術批評論へと拡張する

第五章 カテゴライズは単なる分類ではない
 1 ふさわしいカテゴリーと属するカテゴリー
 2 芸術作品は属するカテゴリーにおいて適切に鑑賞されるとは限らない
 3 芸術作品は属さないカテゴリーにおいて適切に鑑賞されるかもしれない――奇妙さからの論証
 4 純粋な認知主義との決別

第六章 ジャンルとは鑑賞のルールである
 1 ジャンルとはなにか
 2 ジャンルとは作品を分類するための諸概念であるとする見解 
 3 ジャンルとは鑑賞を統制するルールであるとする見解
 4 作品はジャンルへと分類されるのではなく、ジャンルのもとにフレーミングされる
 COLUMN 1 伝統としてのジャンル?
 COLUMN 2 ジャンルとしてのカラー写真

第七章 ふさわしいジャンルとは制度である
 1 ふさわしいジャンルはなにによって決まるのか
 2 ふさわしいジャンルは作者の意図によって決定されるという見解
 3 ふさわしいジャンルは制度的に決定されるという見解
 4 いいとこ取りとしての制度主義
 COLUMN ジャンルとしてのヴェイパーウェイヴ

第八章 批評の意義は判断の柔軟性を養うことにある
 1 批評の意義とはなにか
 2 芸術実践をゲーム実践になぞらえる
 3 芸術鑑賞の価値をゲームプレイの価値になぞらえる
 4 芸術批評の価値をゲームデザインの価値になぞらえる