ごっこ遊びの人生より

主に哲学とアニメの勉強をしています。

ノエル・キャロル 『批評について 芸術批評の哲学』

 

  • 価値づけとしての批評

批評とは理由に基づいた価値づけである。(以下 反論→ キャロル⇒)

 

→キャロルは記述や解釈といった価値づけを支える作業から現れてくると言うが、価値づけはそれらに先立っているだろう。(注意を向けているという点ですでに特別視している)

 ⇒作品を毎回自分で選別するわけではないし、自分で選んでも否定的な評価をすることはある。作品の価値以外に、有名な人が制作したとか、経済的、政治的理由で選ばれることもある。

→価値づけは批評にとって必要条件ではない。

 ⇒明示的ではないかもしれないが、やってはいるのでは。

→価値づけの批評とは、芸術家がルールに従っているかを判定するものなのでは?しかし、そんなルールなどはないだろう。

 ⇒価値づけの対象は効果、結果であり、ルールに従っているという制作過程ではない。あと、比較不能みたいな唯一独自の芸術作品も認めていない。

→批評の価値づけに基準はあるのか?

 ⇒一般的な基準はあり、批評の際に根拠になりうる程度には、「カテゴリー」に照らしあわせて考えることができる。

 

  •  批評の対象

・批評の対象は芸術家が作品を通じて何をやっているかであるのか。目的を達成できているか。作品の価値は芸術家の達成である。

成功価値:芸術作品の価値は作家がそれの作品によって何を達成したのか。

・受容価値:鑑賞者が作品経験から引き出してくる価値。

・キャロルは成功価値を擁護する。受容価値だと、精巧な贋作をうけいれてしまうことなになるなど。

・批評は芸術家の意図に結びついているとキャロルは考えるが、反論もある。

・アクセス不可能論法:意図はアクセス不能

 ⇒日常生活や、他の学問(考古学、歴史学)では記録のない他者の心を読んでいるではないか。意図の特定としてはカテゴリを考えることが役立つ。

・循環論法:作品だけからしか、芸術家の意図は推測できない。作品=意図内容ならば、作品と意図を比べるときに、作品を作品に照らさなければならない。これは循環だ。

 ⇒意図はインタビューとか作品以外でも、推測の根拠にはなる。作品だけを見た場合でも、行為者の意図と、その意図遂行の失敗の二点を同時に見て取れるということはよくある。バスケットボール選手の失敗など。ゴールしたかった。でもできなかった。

芸術家は称賛されたいがために、意図を低く設定すればよいということにならないか。

 ⇒心配しすぎ。

達成論法:達成したことが大切であり、意図を気にする必要はないのではないか。

 ⇒批評家が気にすることはもちろん達成したことなのだが、意図はその達成がどのようなものなのかを把握するために必要。

 →作者が意図通りに作品をつくれないこともあるのでは?

 ⇒その通りだが、意図しない結果になったということを同定するためにも意図はある程度理解しないといけないよね。

 →意図主義を採用すると、ひと昔前の作品(性差別という概念がなかった時代)に対して、性差別的であるとする批評は言えないのでは?

 ⇒批評する人は、芸術家の意図の方向性はわかっているだろう。

・作品そのものが批評の対象ではなく、芸術的手腕である。

 

  • 批評の対象

・批評は以下によって価値づけの根拠が示される。以下の作業が1つもしくは、いくつかは含まれていなければならない。

記述:芸術作品がどのようなものかを民衆に伝える。

分類:どのカテゴリーに作品が属するのかを民衆に伝える。

文脈付け:作品をめぐる環境、芸術史や制度、社会文化の記述。その時代のカテゴリーにおいて解決が求められている課題。

解明:芸術作品の中にある象徴記号の文字通りの意味、狭義の意味の特定。(絵画に描かれた人は誰だ? 描かれたものは何を示すのか)

解釈:主題的意義、物語的意義、メタファーの眼目の調査など。テーマ、コンセプトは何か。製作者が何を意図、意味しようとしていたのかを探求する。

 →解釈と解明、記述は絡み合っている。解釈と記述の違いは、解釈は真たりえないからではないか。間違っているのもあるかもしれないが、どれかは真実であろう。

 ⇒解釈はたくさんある。作品のすべてを十全に記述することは不可能だ。

分析:当の芸術作品がいかに機能しているかを説明する作業。解釈は分析の一部であるが、それだけではない。効果、機能、統一性など。よくわからない。

 

作者の意図について

・反意図主義、慣習主義は皮肉、ほのめかしを説明することができない。解釈とは、慣習のような機械的なものではなく、語用論的なことがら。

→意図されていなかった作品の価値をひていすることになるのでは?

⇒作品の要素を容認したという意味で、少なくとも意図的である。

・仮説意図主義:理想的鑑賞者による推測。公的に出回っていないものは許可しない。

穏当な現実意図主義(キャロル):合理的に製作者の意図に基づいて解釈されなければならない。記録などを解釈しながら。

→読者が意図と受容として決めるのはありか?

⇒小説ならまだわかるが、建築、絵画はどうだろうか。他の作品との比較の基準は作れるのか。

 

  • 価値づけ―問題と展望

・批評は主観的か?キャロル:客観的

・ヒューム:美とは芸術作品から私が引き出す快である。その意味では主観的だが、同じように作られた人間ならば、同じ快を引き起こすと想定されるべきだ。

⇒美しいかどうかを決定することだけが批評のすべてではない。美以外で評価されている作品もある。主観的な味わうことを、小説を鑑賞することと同じようなものだといえるのか。(批評が主観的だといわれるのは、趣味の行使、美―快の感覚―を感知することが問題だからだ。)

→ある芸術作品を何が成功させるのかについての一般的なルールがない以上、批評は客観的なものではないですよね?アイゼンバーグ(性質Fを持つ芸術作品は良い作品だといえる批評原理は存在しないだろう)

 ⇒作品の種類に関係なく、作品の良さを向上させるような包括的な特徴など、法外な要求だろう。価値づけには、カテゴリーの範囲を考えれば、当の芸術作品のジャンルで成功とみなされているかはわかる。

 →作品をどのカテゴリーに分類するかの選択それ自体は、批評家の主観的なプロセスでは?

 ⇒分類(カテゴリー)を支える客観的理由は三種類ある。

  • 作品の構造:特定のカテゴリーを確実視されている作品と典型的な特徴の共有。
  • 芸術史の文脈におくこと。

→なぜカテゴリーは歴史的に正しいものでなくてはならないのか。美的快楽を与えるものというカテゴリーではだめなのか。

⇒問題が芸術家の達成ではなく、いかなる分類が鑑賞者を楽しませるのかに代わっている。

  • 芸術家の意図に関する理由

・アイゼンバーグは、1つの長所を求めたが、キャロルは多元的カテゴリー的アプローチをとる。異なるカテゴリーに属しそうな作品も、たいていの作品は複合的であり、カテゴリーが重なっているものは比較できる。カテゴリーが離れすぎている作品の比較の説明としては、

・別のカテゴリーの傑作と駄作の比較。

・社会的な暮らし。(文化的重要性)